じいちゃんについての記録

   

去年の12月、じいちゃんが死んだ

大往生で、半年をかけて自然と弱って、そっと亡くなってしまったので、見送る方の気持ちとしては、覚悟はできていた。だから頻繁に会いに行ってたし、きっと本人はまだ生きたかっただろうけど、こちら側の勝手な言い分として悔いはない。
ただ人間は、誰かをどんなに大切に思っていても、刹那的に忘れてしまうから、自分なりのじいちゃんの供養として、じいちゃんのことを独り言として書いておこうと思う。
じいちゃんは、第一次世界大戦が終わった3年後の1921年(大正10年)の12月に、今の韓国の木浦という街で生まれた。
じいちゃんの両親(ひい爺ちゃん)は、長崎の島原に住んでいて、日本が韓国併合と言って、韓国に領土を広げていく過程で、農業従事者として島原から木浦に移住した。

抱っこされてる赤ちゃんがじいちゃんらしい(木浦にて)

じいちゃんは最初、農家の森田家の末っ子として生まれたんだけど、子供がいなかったお母さんのお姉さん(松本家に嫁いだ)に養子としてもらわれたそうだ。

甥っ子を養子にした感じだ。森田家と松本家は要するに親戚で、島原の同じ村で生活していて、同時に木浦に移住した。

森田家は農家だったが、松本家は、松本徳寿堂というお菓子屋さんを営んでいた商人で、木浦では工場まで併設してる、そこそこ大きなお菓子屋さんだったらしい。

簡単に調べたところ、1913年時の木浦の日本人移住者は5,415人いたそうだ。

じいちゃんは、そんな街で生まれて生活していた。

そして真珠湾攻撃から1 年後の1942年(昭和17年)21歳のときに、佐世保海兵団に召集された。当時の召集令状は、本籍のある場所に送られてくるらしく、松本家の本籍は当時から今までずっと島原なので、そこで召集されるカタチになった。この時、皮肉にも、じいちゃんは生まれて初めて日本本土の土を踏んだそうだ。

その後簡単な訓練を受け、海兵として第二次世界大戦に出兵。ここら辺はあまり語ってくれなかったが、船に乗って南太平洋の戦線をウロウロしていたらしい。

たまに敵飛行機が船を攻撃してきたとか、話をしてくれたことはあったが、深い部分はあまり聴くことはできなかった。

そして戦争を運良く生き残り、日本の佐世保港に戻ってきた。

松本家と森田家の人々は、韓国を引き上げ、島原に帰る人もいたが、造船の仕事にツテがあったらしく、造船所があった長崎の佐世保に移住する人たちと、岡山に移住する人で分かれたそうだ。

じいちゃんは佐世保に帰還兵として上がり、そこから岡山の方に移住した親戚を頼り、そこに腰を落ち着けた。

岡山では電電公社(今のNTT)に就職。エンジニアとして働いていたらしい。

酒も飲めず、人付き合いも苦手だった自分には、うってつけの仕事だったと、たまに語っていた。

そして岡山でばあちゃんと出会って結婚。僕の父が長男として生まれ、順番に3人。男の子3人の父となった。そこから、定年まで電電公社に勤めて引退。引退後はあまり人付き合いをせずに、ずっと部屋に篭って、機械いじりをしたり、本を読んだりする日々だったらしい。

僕は子供の頃、そんなオタクで物知りなじいちゃんが大好きで、長い休みになるとずっと岡山で過ごした。すごく色んなことを沢山その頃から教えてもらった。世界の歴史の話が得意だったし、世界には色んな考え方があって、色んな意味があることを幅広く教えてくれた。

ちなみに僕の”卓也”って名前はじいちゃんが名付けてくれたのだ。

みんなでテレビを見てたりすると、僕は色んなことを質問をするのがずっとクセだったんだけど、じいちゃんは、必ず1つの視点からでなくて、色んな考え方があって、それぞれの立場で教えてくれた。決して、1つの意見を押し付けずに、色んな考え方を語ってくれた。小学生とかの僕には、あまり理解できてなかったけど、今ではその時にじいちゃんが本当は教えてくれようとしてたことがよく理解できる。

じいちゃんはパソコンも趣味で、パソコンはかなり早い段階から導入してプログラムみたいなことをずっと部屋に篭ってしていた。小学生の時にはすでにパソコンが家にあった。

後の趣味はカメラ。沢山カメラを持っていて、8mmとかもあって、きっとその影響で、今の僕はこういう仕事をしてると確信している 笑。

そして僕が小学5年の頃、じいちゃんは岡山から僕らが住む大阪に越してきた。その日のことは今でも覚えていて、幼い頃から両親が働いていて、鍵っ子だった僕は本当に心強くて、来てくれて嬉しかった。もう寂しくないと思うと、こんなに楽しいことはないって思ったのを覚えてる。

じいちゃんは、僕が大人になって今の仕事を始めても、僕が写真を撮る姿を見ては、いつもニコニコ、僕のことを見てた。最近は子供の頃と違って、僕が質問される立場になってたけど、会うたびに、新しいビデオカメラや、カメラのことや撮り方を質問してきて、僕は一応真剣に答えてきたつもりだ。

よく一緒にカメラ屋とか大きな電気屋に行った。足が悪くなってからは、自転車で遠くに行けなくなったので、僕が車を運転してよく電気屋に出かけた。

家は、死ぬ直前まで、ビデオテープとDVDと本だらけだった。じいちゃん、これ全部ちゃんと観れたのかなぁ。僕は死んでからそのビデオの山を見て、少しだけ切なくなった。

僕が最近で一番嬉しかったことは、写真新世紀っていう賞の優秀賞に選ばれたとき。すぐに、僕はじいちゃんに報告した。僕のじいちゃんは、写真とビデオが本当に好きで、だからじいちゃんにとりあえずすぐに報告した。

じいちゃんは心から喜んでくれて、「自分が若い頃にできなかったことをやってる卓也が、本当に誇りだって。」そう言ってくれて、初めて、写真やっててよかったなって思えた。

僕はいつも、幼い頃から、じいちゃんに肯定され続けて、自信をもらって大きくなったから、だからじいちゃんに喜んで欲しかった。じいちゃんに喜んでもらうことが心から嬉しかった。

東京に来て、遠く離れてしまったけど、都度都度大阪に会いに行った。

そんな暮らしの中で、とても静かに、大きな時間をかけて、徐々に弱って行ったじいちゃん。

骨になったじいちゃんを見て、何だか、大きなことを最後に教えてもらったなと、みんなが骨を拾う光景をボーと見てた。じいちゃんがいて、今、僕が生きていることを誇りに思う。

人間は誰でも死ぬし、骨になって、誰かの記憶の中に止まる。そしてその記憶もどこかに書いてない限り、いつか皆んなの死と共にこの世から消え去る。

だから、生きてる僕は、じいちゃん達が残してくれたことを大切に覚え続けて、残りの人生を力強く生きる必要があるのだ。

お疲れ様、きっと人生楽しかったね。じいちゃん。

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